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Something Impressive(KYOKOⅢ)

氷の中の青春(’62)・忘れられた皇軍(’63)/河瀬直美トークイベント

一昨日、近くの芸術劇場「座・高円寺」での第1回ドキュメンタリーフィルムフェスティバルの、「7人のゲストが選ぶ日替わり上映&トークショー」の中の、河瀬直美セレクション「大島渚のテレビドキュメンタリー」2本(「氷の中の青春」(’62)と「忘れられた皇軍」(’63))+河瀬監督トークイベントに行ってきました。

知る人だと、7人の中、16日森達也監督、昨日是枝裕和監督の回もあったのでしたが、たまたまその日都合空いてたのと、河瀬監督は、最新作「七夜待」('08)は未見のままでしたが、以前唯一好きな女性監督として挙げてたり、

また大島作品は、定かに見た覚えあるのは「戦場のメリークリスマス」('83)、「愛のコリーダ」等イメージだけあって記憶が曖昧、討論番組での姿は印象残ってますが、ドキュメンタリー作品もあったというのは初耳、そういう興味もあったのでした。

この劇場は来たのは初めて、最初の2本上映時は無料でトークショーは有料、上映時はほぼ満席、トークショーではやや観客数も減っても、結構賑い。今回のセレクトについて、河瀬監督が「萌の朱雀」('97)でカンヌで賞を取った後、大島監督が、ご自身内側に誇りを持つゆえか、自分のような者にも非常に丁寧に接してくれた、というようなエピソードを話してました。


2本共モノクロで30分程度、最初の「氷の中の・・」は、北海道風連湖の氷上で、コマイ漁に勤しむ若者達の姿を追った作品。映画詩、という見出しがあって、最初と最後に少しナレーションが入るだけで、科白もなし、ひたすら、氷に鍬状の器具で穴を空けたり、網を操ったり、という作業の様子を、管弦楽等の音楽バックに描くのみ。

ちょっと目に残ったのは、その内の1人が、拝むような形で氷上にしゃがみこんでいて、次の瞬間、氷上に空いた穴の水面にその顔がアップで映っているシーン、多分、魚の様子を探っていたのですが、唯一一瞬何をしているのか?と思った所。

映画詩、と言えば、近年そういう呼び声で覚えあるのはリバイバルの「赤い風船」(’53)、これも科白はなくとも、少年と風船との経緯があって、シネマ・ポエム、という呼び方がフィットする感だったのですが、今回のは、ひたすら氷上で地味な作業をする姿、正直やや単調な気がしたのですが、その若者達の動作の1つ1つや、光る氷の微妙な変化とか自体が”詩”だったのかという所でした。

次の「忘れられた・・」は打って変わってハードな題材で、戦時中、日本兵として戦った15名程の韓国人傷痍軍人達が、首相官邸に陳情に行ったりデモ行進したり、募金を請うたり街頭で人々に苦境を訴えたり、仲間内の宴席での様子。

どの軍人も、義手、義足で白装束、の痛ましい姿の壮絶さに、まず目を引かれ、音楽も、軍歌や「アリラン・・」の曲等、特に、3重苦の手足を奪われかつ失明した方に、よくスポットが当てられ、やはり空襲で失明した妻、彼らの世話をするその妹との慎ましい暮らしぶり、布団に横になって聞く、ラジオからの野球中継が唯一楽しみ、金田が勝つと喜んだり、という様子や、

この方のアップが多かったと思いますが、終盤宴席で、仲間と共に耐え難い辛い心情が溢れ、目のない目からも涙、というナレーションと共に、失われたその目から本当に涙が滲んでいた表情が、頭に残りました。

後でQ&Aの中、当時のこの作品への反応は?という問いに、山崎氏の示唆で、観客席にいた関係者の人が答え、その後、この傷痍軍人達への補償を巡る裁判が起こったけれど、結局敗訴、との事で、はっきりこの作品が原因、とは言わなかったと思いますが、この作品で、とにかく裁判へと繋がるような世論への刺激はあったらしいのが伺えました。

白装束の傷痍軍人姿は、微かな記憶にあるのですが、その多くが在日韓国人、というのも子供時代、知る由もなかった、と。これまで見た日韓摩擦題材の作品中、短くても後味は、一番インパクトでした。


入れ替え制で、休憩後トークショーが始まり、ステージに河瀬監督登場、私は姿は映像では「沙羅双樹」('03)で妊婦役で出ていたのを見ただけだったと思いますが、ラフな白ワンピースに黒スパッツとシャツ、グレイのショール姿、セミロングヘア、ソフトな笑顔で折にこぼれる関西弁、思ったより柔和な印象、でも話し出すと、攻撃的というのではないけれど、自分のスタンスの、後には引かない、という感じしました。

トーク相手は、山崎さん、と呼んでいた男性、「沙羅双樹」の撮影をした方で、自分とは対象に対する欲望が似ている、等話に出てましたが、後でカメラマン山崎裕氏、と判りました。見た中では「カナリア」('04)や、「ワンダフルライフ」「ディスタンス」「誰も知らない」等是枝作品も撮っていたのでした。

今回の上映作品について、「氷の・・」は、山崎氏は、劇映画監督がドキュメンタリーを撮る時に入りやすい手法、等と語り、河瀬監督は2本とも今回初見のようで、「忘れられた・・」については、カメラがあるという事で、彼らの行動を煽るものもあったり、「氷の・・」に比べて、対象から引かないでクローズアップを続けたり、監督とスタッフの一体感、潔さ、を感じた、自分が製作において、周りとその作品の世界観を討論、という事は余りなく、この作品では、それが結構あったようで、羨ましい、

山崎氏から、自分にはこの作品のようには出来ない、という部分は何か?と聞かれて、この作品のプロデューサー牛山(純一)氏のような存在がなく、自分単独で、だと、こういう作品を作り発表することで、この方々への一部責任を負い、今後も共に生きる、という覚悟がなければ、私にはこういうものは作れない、

阪神淡路大震災の時も、ドキュメンタリーが撮られたりしていたけれど、私はその地に足を踏み入れる事は出来なかった、等と語ってました。


折々話に出た牛山氏、というのは、美智子妃ご成婚の際、人々が一番見たいのは美智子さんの顔だ、という判断で、ビルの上階に設置予定のカメラを地上に下ろさせ、ひたすら美智子さんの表情を追って、高視聴率を稼いだ、という伝説の人だそうで、

「忘れられた・・」でも、実は終盤シーンの宴席は、牛山氏の指示で、ダメ出しが必要、として、製作側がセットアップした席だった、という事で。それはこのトークで聞かなければ、見た時には全く自然な流れ、と思っていて、確かに、「ヤラセ」とは言っても、あの場でのあの方々の同胞感、滲み出る感情に、嘘はなかった、目のない目から涙、の所を含んで、ああいう彼らの素顔、というシーンが、作品のインパクトを強めた、とは思うのですが、

その後、ドキュメンタリーの恣意性、のような話になって、後でやや複雑な気しました。

この山崎氏は深作欣二監督の「もの食う人びと」('97)というTVドキュメンタリーも担当、チェルノブイリの原発事故近くの村の様子撮影の際に、毎月その村で行われている、地元の若者がギターを弾いてのパーティのような催しが、たまたまその時は行われず、やはり製作側がセットアップして他所からギターを弾く若者を呼んで、同様な催しを開いて、その様子を撮影、

後で「ヤラセ」と問題になって、深作監督からあれは不味かったのか?問われたけれど、自分は、問題ないですよ、と答えた、との事で、毎月行われてる事を同じ様にしただけだし、と言っており、確かに、「忘れられた・・」の宴席のように、そこに参加した人々に、多分やらされてる、という感覚はなく、普段の自然な感情は出ていたのだろうし、

2人がQ&Aコーナーで含め語っていたように、伝える側が全く”中立”である訳がない、それは、言葉だけあって、実体がない、事実を伝えるにしても、見せたいものだけを見せる自由、何を切り取って見せて、何を見せない、という恣意性はあって当然、というのは判るのですが、

そういう、事実の取捨選択と、現実に起こってない部分を、あえてセットアップ、というのは、別問題で次元が違う感が。単なるニュース報道者とは違い、ある思いを持つ創り手主体、ではあっても、ドキュメンタリー=良くも悪くも現実を切り取るもの、で、決して現実を創るものではない、と思うのですが、そういう意義(定義)の中、普段されている事の再現セットアップがOK、なら他の事は?という境界も、曖昧になりそうだし、

そういう意味では、そのパーティにしても、「忘れられた・・」の宴会にしても、対象の人々に寄り添う思いを持つ製作側、という部分も作品に登場させて、彼らが人々のため設定した場、というありのままでやれば、”嘘”もなくヤラセを問われる事もなかったのに、等と思いました。

今回改めて、結局色々事情あっても創り手の意識(道義感)次第なのかもしれませんが、確信的作為にはやはり賛同出来なくても、ドキュメンタリーで、創り手の恣意性、というのも味の1つ、という事も思ったり、

近年私が見たドキュメンタリーは、動物・環境ものやマイケル・ムーア作品ですが、改めて、ムーア作品というのは、そういう意味では、恣意性をエンターテイメント化、膨大な現実映像資料からの念密過ぎる程の取捨選択・編集+同監督自ら行動する事によってヤラセをヤラセでなくしてる、という部分が、本人の主義、というのか、巧みさ、パワーで、中立というのはさておき、ある程度正当、という感はするのでした。


どうも2人共、中立、公共性、というような事(言葉)には何か敏感に反応してる気がして、山崎氏は最後に、今TV局が自局製作の映画宣伝をしきりにしてるのも、すでに中立でなくなり、公共性が失われてる、と。

河瀬監督は、何故中立でなければならないのか、と思うし、見る側も馬鹿ではないし、それが中立でない、というのは判っているし、何故問題にされるのか、ワイドショーを見た近所のおばちゃん達は、あんなに言うてた、とかそれを信じるけど、すぐ忘れてしまうし、等と穏やかに笑いながら話し、その時、やはり同監督の想定観客は単純に一般層、という訳ではなさそうで、ある所からはやはりやや鼻につく感じ、ある意味真摯、とも思ったのですが、

Q&Aの中で、夏の地元奈良で主催する映画祭について聞かれて、熱心に語り、奈良市の映画館がつぶれ、奈良は今県庁所在地に映画館がない唯一の県、等と苦笑、奈良では余り映画が身近でないし、映画層を広めたい、等と意欲を語ってたのですが、そう言えば私の奈良在住の叔父叔母達と、映画の話等した事もありませんでした。

同監督は、山崎氏に、製作上、劇映画とドキュメンタリーの違いは?と聞かれ、劇作品は、これを撮りましょう、と場を作る感じ、ドキュメンタリーは、余りセットアップしちゃいけない、事前にスタッフと話をして取り込まないようにはしている、もっとも劇映画でも、自分はそうセットアップしない時もあるけれど、との事で、その(被写体の)人の核になってるものと通じ合えれば、その人とどう接するかによって、いいものに辿り付けると思う、等と語り、

ドキュメンタリー河瀬作品は未見ですが、特徴というか、科白が聞こえにくかったり、ドキュメンタリータッチシーン、対象に、迫る、というか寄り添うような作風が思い返されたりしました。

また、今は、平坦なドキュメンタリーが多すぎる、と言ってて、Q&Aで、そういう判りやすいドキュメンタリーが価値を増す可能性はあると思うか、というような問いに、少し考えて、情報、という機会では、いいものもあるけもしれないけれど、頭は知っても、心がついて行かない、という事もあると思うし、不器用でも感情吐露しているものの方が、ガツンとくることが多いと思う、等と答え。

このQ&Aコーナーで、同監督は質問者の問いをじっくり聞いて、主旨に沿って割と丁寧に答えてる印象、5、6名だったかの質問者は全員男性で、

一番印象的だったのは、「萌の朱雀」で発掘した可憐な少女だった尾野真千子を、「殯(もがり)の森」で、肌をはだけさせる、というのは女性監督としては、どういう心境だったか?というような問いに、やはり肌をはだける、という事で、どうしてもエロい感覚になるんでしょうか?あのシーンでは、エロというより原始的なエロスというか、(うだしげき演じた老人の)生命維持のため必要な行為だし、真千子も抵抗なく、身体全てで表現するのが女優(俳優、と言ったのかもしれません)だし、制限があるのはおかしいと思う、等と答えた時でした。

同じ主演女優、だし、「殯(もがり)の森」('07)は「萌・・」のヒロインの成長後、とも思えたり、と以前感想で書いてたのですが、確かに少女→女性への変化、でも、何だか、男目線からの素朴な問いかけに、女性である同監督が、そういう部分をスルリと抜けた、芸術目線で対応してたのが、ちょっと面白かったです。

そんな所で、2本の昔の大島作品+ナマ河瀬監督体験味わい、そして改めて、ドキュメンタリーの事を考えさせられたりもしたイベントでした。

関連サイト:http://www.documentaryjapan.comhttp://za-koenji.jp/home/index.phphttp://www.allcinema.net/prog/show_c.phphttp://www.kawasenaomi.com/
関連記事:沙羅双樹(’03)殯(もがり)の森(’07)


氷の中の青春(’62)・忘れられた皇軍(’63)/河瀬直美トークイベント_a0116217_1737156.jpg

by MIEKOMISSLIM | 2010-03-21 00:00 | 邦画 | Trackback | Comments(0)