2017年 06月 19日
国境の南、太陽の西 / 村上春樹(’92)
例によって寝る前にボツボツだけど、終盤はどうなっていくのか?引き込まれて結構一気に最後まで。
後味は、はっきり言ってどんより重い、というか、まあ読んで意気が上がるものではなかったのは確か。
「ノルウェィの森」に被るテイストもあって、大雑把に言って、主人公はそのままトオル→ハジメ、直子→島本さん、緑→有紀子、
子供時代から心奪われていた女性島本さんとの、数奇で甘美な再会~現実に生活の中にいる妻有紀子の元に戻ってくる主人公、という所だけれど、
直子よりもさらにヒロイン島本さんの実体に謎が多く、後でこの作品の解釈例をいくつか見かけた後、おもむろに重なったのは怪談「牡丹灯篭」。
ただ主人公は、自分を憑り殺しに?現れた島本さん(の幻?)を全く怖れることなく魅かれていって、彼女のために自分が現実社会で得た全て、裕福な暮らし、家庭、店などを捨てる心境だったけれど、
何故かその2人のクライマックス、運命の決断の翌朝、亡霊?島本さんは跡形もなく姿を消し、彼は再び現実に舞い戻った?舞い戻された?のだけれど、
やはりそこは春樹小説、結局、周りの環境、確かに手中にあるものを大切にして人は生きていくのだ、というような前向きなニュアンスは余り感じられず。
しかも、「ノルウェイの森」の脇役女性、レイコはある種の力強さ、意志をもった女性だったけれど、
この作品の脇役女性イズミは、恋人だった主人公に、形として手痛い裏切られ方をしてしまって、その傷をずっと抱えたまま癒されず生きていて、
終盤ただその生気のない表情のままに、主人公の前に一瞬現れて消えていく、これまた一種の生霊のような、何とも救いなく暗い、としかいいようのない描写、というのも輪をかけているかも。
本質にあるのは根深く忘れがたい純愛、といえばそうなのだけれど、日常に潜む普段封じ込めている「心」、それと現実生活とを秤にかけて、そのバランスが崩れて「心」が暴走し始めると厄介な、というか。
タイトルの「国境の南、太陽の西」は、作品中にも出てきて、「国境の南」は元々ナット・キング・コールの同名映画の曲とのことで、
ちょっとどんな曲か?と思ってYou tubeで聞いてみたら、特に陰影、というのは感じられない、明るい感じの曲。
「太陽の西」は、どうも春樹氏の造語らしい「ヒステリック・シベリアナ」、
”毎日毎日畑を耕していたシベリアの農夫がある日突然、自分の中でぷつりと何かが切れたようになり、農具を放り出して太陽が沈む西に向けて死ぬまで歩いていってしまう”という病気、からの言葉で、
「国境の南」には、歌詞で単にアメリカの南=メキシコの歌だと知る前に、何かとても綺麗で、大きくて、柔らかいものがあるんじゃないかと思っていた、とか、
「太陽の西」には、何もないのかもしれない、あるいは何かがあるのかもしれない、と島本さんが主人公に語る場面があって、
それは何か江角マキコ主演だった「幻の光」の、ヒロインの自殺してしまった夫の見たもの、というのもちょっと浮かんだりするけれど。
短絡に思えば、主人公にとっては、子供時代の甘酸っぱい思い出のある少女島本さん(の面影)、自体が「国境の南、太陽の西」にある(かもしれない)もの?で、
「シベリアナ・ヒステリック」さながら、そこに彷徨って行きかけたのだけれど、行き切れず戻って来て、戻ってきた以上、元の場所でやっていくのだろうけれど、というか。
世間的には、好意を持ちあって結婚した妻との間に子供も2人、やり手の義父の恩恵もあって、都内にジャズバーを経営したりしている裕福な主人公、
作品の年代的にもバブルの香りが漂よったりもするけれど、それと対比するような、空虚感ある「心」の在り方。結構な身勝手さ、とも、ある種の現代病、とも斬れそうだけど、
やはり冒頭から、この主人公にとっての島本さんが、単なる浮気相手でなく唯一無比の神聖な存在、として導入、ラストまでそれで押し通して読ませるのが、さすが村上春樹の手腕、というか。
まあとにかく、大分前に買いはしたまま全く内容は不明のままだった作品だけど、確かにさすがに春樹もの、淡々とした文体から滲みでるある種の切ない感触、は味わえたけれど、
どうにもどんよりした後味で、今あえて読むべき類のものではなかったかも。。
他に未読、また内容ほとんど忘れている春樹本はあったか?とちょっと本置き場を探ったら、文庫の「カンガルー日和」発見。
これは全く未読か?どうか覚えないけれど、短編集のようで、そう重くもなさそうだし、今度はこれをボツボツ進めることに決定。<(C)(株)講談社↑>
そういう所で、とりあえずずっと未読のまま眠っていた春樹長編、読了でした。
関連サイト:Amazon「国境の南、太陽の西」
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