2012年 03月 22日
3.11東日本大震災から1年
まずやはり直接の揺れ自体の体感、住居の散乱状態がこれまで私が体験した一番激しかった地震。東北に比べて東京は被災地、という程のものではなかったけれど、
色んな物がどんどん振ってきて床を覆って積もっていって、机の下にうずくまったまま、このままこの揺れが悪化、続いたら、ここで1人埋もれて死んでしまうんだろうか、という何とも不気味さ。
今思えばああいう感覚は、小学生の頃、夏に故郷の海で、1人浮き輪を着けたまま岸から離れてた時、波のうねりが激しくなって、波に巻き込まれながらどんどん沖に引かれていって、このままどうなるんだろう、という心細かった怖さ、以来。
あの時は、気付いた男性2人が泳いで助けにきてくれてことなきを得て、あの地震も幸い身の危険には及ばず収まったけれど、悪化してたら、はたして救助はあったんだろうか、とか。
でも、発生時母は商店街を歩いてて、周りの人達5,6人ととっさに一団になって肩を組み合って、「大丈夫だ!」と声を掛け合ってた、というような、実際身近なとっさの見知らぬ人同士の助け合いエピソード、というのも改めて印象的。
当時のブログ記事をざっと見直すと、昨年地震後3,4月のこの頃は、連日のように余震で落ち着かず、牛乳、米、パンなどの店頭不足、また浄水場から基準値を超える放射性ヨウ素検出、とかで、ペットボトル水も品薄だった、と改めて。
私の地区では直接はなかったけれど、輪番停電や、TVやネットでも放射能汚染トピックが連日。いまだに家では折に、当時のように、手元の1ℓペットボトル5本に水道水を溜めておいたりしてるけれど、春以降は特に品不足もなく、水道水警告も聞かず。
放射能問題も終息、という訳ではないはずだけれど、徐々にそういう話題の波も引いてきて、余震は折にあるけれど、まあ日常に戻ってきたのは良かったかと。
結局個人的な主な破損自体は、教室の蛍光灯落下、2ヶ所壁(紙)のヒビ、だったけれど、仕事関係でも家庭での自粛モードで付随的な影響もあったり、まあそれなりの備えもあってそう切羽詰った大打撃、という訳ではないけれど、
心境的には、あの3.11で、ある種個人的バブル期は終わった、価値観見直しショック、というか、ここへ来ての1つの分岐点だった、という気持は変わらず。
良かったことと言えば、お陰で、というのか、長々ケジメをつけられないでいた英検にも本腰になれて、やっとパス出来たし、母だけだけれど家族、また今手元にあるものは、大事にしないと、などとと改めて思ったり、
また当時はユーミンの「春よ、来い」、一青窈「ハナミズキ」などの曲が、通常の時とは違うしみじみな聞こえ方したり、春以降は英検絡みもあったけれど、今一エンタメも味わう余裕なかった、という感じ、
余震の余波で、ビル上階での映画鑑賞、またそういう場所へ行く事自体も全く気が向かなかったけれど、近頃になってそういうのもまあ大丈夫になってきた、という所。ただ食指動かないエンタメには時間、費用、労力をかけたくない、という気持も前より強く、私なりに選んでいきたいとは思う。
東北での実態、福島原発問題とか、折にまだここらでもやや強め余震もあるし、色んな意味でまだ終わってはない、という所も現実で、”あの日”(の衝撃)にただ捕われてても仕方ないけれど、ある意味忘れないように、前向きに出来る事を一歩一歩、と改めて、という所です。
関連サイト:東日本大震災から1年 危機管理トピック rescuenow.net
関連記事:東日本大地震<1>、東日本大地震<2>