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Something Impressive(KYOKOⅢ)

流星ひとつ / 沢木耕太郎(’13)

昨年10月出版の沢木新刊、「流星ひとつ」を先日読み終えました。

昨年夏に他界した藤圭子に対して、’79年に行われていたインタビュー内容。異色なのは、ベールに包まれた、一世風靡した演歌の星~引退~宇多田ヒカルの母~自殺という波乱の生涯だった元スター、

当時28才だった本人が、率直に語る様々な履歴、その時々の思い、という内容の”生身感”自体もさることながら、全編、2人の会話文のみでの構成、ということ。

そこには確かに、いつものように対象に対してスタンスを保ちながら迫り、観察する沢木さん、という存在があるのだけれど、

沢木さん自身が、スター藤圭子という看板を背負う生身の女性が見せる感性の揺れに、立ち合い、受け止めたりかわしながら過ごした丁々発止の時間の、生々しい記録、と言う感じ。


昨年夏、藤圭子の訃報を聞いた時、様々に騒がれてるこの元スターのショッキングな謎の死、というものの背後に人間味ある真実、ドラマがあるとしたら、

実際の経過は不明だけれど、彼女との何らかの過去の思い出があるのは確かな沢木さんが、追ったらどうだろう?とふと脳裏に浮かんだけれど、それはやはり、下世話かもしれないし、今更有り得ないだろう、と思ったり、ということがあった。

その後何だか情報を見逃していて、今年の春~夏頃だったか、同年秋にこの本が出ていた、と気付いてちょっと驚き。

で、図書館に即予約、ようやく先日回ってきて、丁度期末対策も終わった頃から読み出し。それは、私が訃報直後とっさに思ったような類の、死の真相に迫る、的ルポでなく、大分前藤圭子が引退を決意した頃のインタビュー、だったのだけれど。

         



読み終えて、まず思ったのは、これって、凄まじいまでの沢木さんの記憶力、のなせる技!?ということ。

構成は一夜でのお酒を飲みながらの長いインタビュー形式、実際はその後何度か補足のインタビューがあったようだけれど、

それにしても、この作品が録音を元にしての書き起こし、という情報は見当たらないし、まあ多少なりともメモは取りながら、だったのか?だけれど、録音的手段は皆無だったとしたら、

1冊の本になる程の量の、互いの微妙なニュアンスもあっただろう「会話」のやり取りを、完璧にその通り、でなくとも、編集もあるにしても、自然な話の流れに沿って再現してみせる、

それは「深夜特急」でも、当時のメモや手紙などの資料は残ってたにしても、昔の旅を思い起こして臨場感ある詳細な長編作にしてみせたことですでに感嘆、

他のルポでも、この人の細かい部分に至るまでの記憶力あってこそ、という感はあったけれど、今回、改めてその真骨頂、というか。


12/21追記:ぼんやりと、不幸な生い立ちからスターになって、そういう過去が歌にも投影されてそれがまた悲哀の魅力、のようなイメージあったけれど、

実際、両親は旅芸人の浪曲師、お母さんは盲目、本人は幼い頃から各地を転々。歌は、ガラガラ声で音痴と思われてたのが、ある日鼻歌を歌っているのをお母さんが、うまいじゃない、と見出して、

小学5年の頃から両親と一緒に旅で、畠山みどりの曲などを歌うようにになって、地方の歌謡ショーで歌った時に、八洲秀章氏という作曲家に見染められ、

中学卒業同時に上京。でも当初は両親と夜の街でギターを抱えて流しをしていたり、というようなことを、本人は割と淡々と回顧。

現実的な貧しささておき、目の不自由な母にも容赦ない粗暴な所のあった父とか、兄、姉との3人兄弟で、子供時代旅に出た両親が予定を過ぎても戻ってこず、食費に困って、近くの豆腐屋で納豆を分けてもらって、それを売って生活した、とか、

「誰も知らない」ではないけれど、なかなかハードな子供時代、でも本人は母親っ子で、そういう親子の情はあったようで、歌に対しては特に思い入れなく、

わかってたのは、食べて、寝て、生きていくってことで、美味しい物を食べられたら嬉しかった、のような思春期。この人にとって、歌は家族の一員としての、生活のための一部だった、という感じ。

上京の際も、歌手、スターになりたい、という考えもなく、両親が決めたことに従っただけ、のような成り行きで、作詞家の、当時無名で沢ノ井と言う名だった石坂まさをの家に下宿、紆余曲折して「新宿の女」でブレイク、というような経緯だったのだけれど、

余りこの本の本人の語り口からは、曲のイメージからのハングリー感、悲壮感、などは匂わず、割とあっけらかんとした性質の少女時代、という印象。

       
 


最初の若くしての結婚相手、前川清とのエピソードにしても、まずクールファイブのボーカル、として歌が上手い人、という羨望があって、

熱い思い、というよりは、>淋しかったんだよね、お互いに。デビューしたばかりで、友達なんかいなくって、同じレコード会社で、演歌だし、少しずつ話すようになって、2人で会うようになって、・・< のような経緯。

1年で離婚に至った決定的な、という原因は語られてないけれど、前川清は身内みたいな感じで好きで、異性というより兄のような感じ、だったそうで、

別れた後も、彼女に良き相談相手のような態度で接していたらしく、歌手、人間としては尊敬している、その後から知り合った人たちとは、核が違う、でも、心がときまかない、

いくら周囲の人が、あの人はよくない、悪人だっていっても、私の胸がときめいてしまったら、それで終わりじゃない、という辺り、

実際その後の恋の相手が、売れない歌手だったり、不倫スキャンダルになったのだった巨人の小林投手との、痛い思い出、というのもあったり、恋に関して正直で不器用、危なっかしい感じ。

         


前川清と結婚当初、前川清の知り合いで仲人をした人物が、家を改築して上階に住めば、という提案に乗って、土地を買ったけれど、

払った金銭面より少ないの領収書との食い違い、その妙な言い訳に、前川清はいいじゃないか、と言ったけれど、彼女は気持ちが悪いし、売り主に確かめたら、やはりその領収書通りの売値だった、と判明、

またその頃に、その人たちが階下で、いいんだよあいつらの金なんか、アブク銭がいくらでも入ってくるんだから、というのが聞こえて、ゾォーっとして、

前川清に、ひとりでも出て行く、この家かあたしか、どちらか選んでください、ということになって、アパートを借りて住むことになった、などというエピソード。

まあ、芸能人にありがちな、金銭詐欺、トラブルの類かもしれないけれど、絶頂期の演歌スター同士の結婚生活、にしては、

前川清が、スターになってから近づいてきて、その奥さんに洗濯をしてもらった、のような恩のある人物、にしても、どうも胡散臭い人物の家を出費して改築、そこに同居してたり、

底からの移転先も、三田の”アパート”という、意外な不安定さ。やはり両親も女と共に北海道から上京して流しをしたり、売れてからも彼女頼り、後年、母と離婚、再婚後も父から執拗な金の無心あったり、

前川清の背景は良く知らないけれど、やはり長崎から出てきていて、演歌のスターと言っても2人共若く、家族から経済的なバックアップもない状況で、そこにつけこんで群がる人々、のような構図も垣間見えたり。


そういう波乱もさることながら、前川清と婚約中に出すことになった「恋仁義」という歌は、「惚れていながら身を引く心」なんて空々しいし、

前川さんを好きだった多くの女の人はきっといくらでもいただろうし、その人たちに対しても白々しすぎる、という理由、

離婚の1か月前に出してた「別れの旅」も、そんなこと思いもよらなかったけれど、宣伝用の離婚、などと言われて悔しくて、また歌詞も辛くて、すぐに歌いのを止めてしまって、

プロの歌手なら恥ずかしい、駄目なことだけれど、私には歌えなかった、というようなくだり、とか、印象的なのは、沢木さんも「あなたは本当に潔癖な人ですね」と言ってるけれど、

まあ大スター、というより20才そこそこの一女性として垣間見える、芸能界の波間での一種の律義さ、純粋さ、というような一面。

      
 


12/22追記:私が藤圭子の曲で覚えあるのは、タイトルを辿ると「京都から博多まで」までだけれど、

本の中程で、沢木さんから、宇崎竜童・阿木燿子夫妻が創った’78年の「面影平野」は、ラジオで聞いて、久し振りに藤圭子が曲に恵まれた、これはヒットするぞ、と思ったけれど、なぜヒットしなかったんだろう?という質問。

それに対して、まず彼女自身、すごくいい詞で、阿木燿子さんてすごいとは思うけれど、あの歌の持ってるいる心がわからない、

だから、人の心の中に入っていける、という自信を持って歌えない、凄い表現力だなっていうのはわかるんだけれど、理由もなくズキンとくるものがない、という話。

それを聞いて沢木さんも、なるほど、そういうことか、と言って、あなたにとって、ズキンとする曲は? と聞き返すと、たとえば「女のブルース」で、この歌はよくわかった。歌詞を見たときからズキンとした、のような回顧。

そしてその後、この曲がヒットしなかったのは、それだけじゃない、沢木さんが先に言ったように、
藤圭子の力が落ちたからかもしれない、と話し出して、

それは、デビューして5年目位に喉の調子が良くなかった時、しなくてもよかった手術をしてしまって、声が以前と変わってしまった、ということがあり、

高音が、澄んだキンキンした音になってしまった、自分の歌は、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出て行くところに一つの良さがあったのが、どこにも引っ掛からないでスッと出て行くようになってしまった、と。

「面影平野」は、宇多田ヒカルが前に、この曲を歌ってるカアチャンはかっこいい、と言ってて、今回初めてYou tubeで聞いたみたけれど、素人目には、どうもそれ以前、手術前の時期の歌声との違いって?判らず。

        

沢木さんも、でもあなたは依然として充分うまい、と言ったけれど、本人にしたら、手術後の自分の歌は聴いていても歌っていてもつまらない、というギャップがあったようで、そこら辺は本人にしかわからない範疇なのだろうけれど、

彼女の声が変わった、と、最初に気付いたのは、盲目のお母さんで、手術してすぐのショーの時、舞台のそでにいて、純ちゃん(藤圭子の本名純子)の歌をとても上手に歌ってる人がいるけれど、あれは誰?とそばにいる人に尋ねた、そうで、沢木さんが、すごい話だね・・、と。


結局、その出来事がこのインタビューが行われた’79年末の引退のきっかけにもなったようで、その後は渡米、英語の勉強をしてしていて、

自由な生活ぶりが、後記に紹介されてる沢木さん宛ての手紙の文面からも伺え、経済事情もあって進学しなかったけれど、元々中学での成績も良かったようで、

インタビューの最後の方でも、英語の勉強をしたい、と言ってて、それを実行した、ということでもあると思うけれど、

何となく、バークレーからニューヨークへの引っ越しに、英語学校のクラスメートが友人とボストンへ行くのに便乗するつもり、車で行く方が、飛行機で行くより違ったアメリカも見られるし、のようなくだりは、

インタビュー中、彼女は「敗れざる者たち」にも言及してて、沢木本は多少読んでるようだったし、もしかして「深夜特急」旅の影響も多少なりとも?などと思えたり。


巷の情報だと、このロングインタビューがきっかけとは思うけれど、2人が恋愛関係になって、藤純子はNYで沢木さんが来るのを待ってたけれど、

沢木さんは、すでに結婚していたか、結婚前だったとしても、結局彼女の元へは行かず、傷心の彼女は知り合った宇多田氏と結婚、という経緯、という説。

沢木さんは、翌年完成させていたこの本を新潮社から出版予定だったのが、彼女が芸能界に戻って、歌うようにならないとも限らないし、その時この本が枷にならないか、

その時、自分の周囲の人について、あまりにも好悪をはっきり語りすぎているし、要するに、これから新しい人生を切り拓いていこうとしている藤圭子にとって、この作品は邪魔にしかならないのではないか、という逡巡の末、出版はやめた、とのことで、

実際2年後に藤圭似子としてカムバック、あながち無意味な配慮ではなかった、ようだけれど。

彼女との間については、インタビューと通した過程で、互いに好意を抱いていた、というのは認め、実際の関係については否定しているようで、真実は本人同士のみ知る所、だけれど、

この会話体だけで成り立った画期的な本のお蔵入り理由は、記されているようなジャーナリストとしての男気、対象人物への配慮、のみなのか、

結局振る形になってしまった元恋人への配慮、遠慮、というのも入り混じってのことか?ここら辺もやはり本人のみぞ知る、という所。


前に「旅する力 深夜特急ノート」で、彼女とパリの空港で遭遇、という出来事に触れてた時と同様、今回の沢木さんの誤記からは、そのような恋の痕跡らしきニュアンスは特に感じられず、

彼女からのラフな手紙も、最後に「体に気をつけてください あまり無理をしないように。」とはあるけれど、ロングインタビューを受けたきっかけでの親しい友人感覚、ともとれなくはないけれど、

このインタビューを通して、沢木さんには、彼女の意外な素朴、というか天然、率直、純粋さに驚き、というような節が見られるし、

藤純子にしても、まあ沢木さんの紳士的対応、話しにくそうなことはスルー、自分の経験談も交えてラフに、折に「ハハハ・・」と苦笑したりかわしたり、という進め方もあるかもしれないけれど、ここまで色々あけすけに話してる、という事実からして、

芸能リポーターとは一味違う、違う世界での広がりを持つ沢木さん、という対象に、人間~男性として魅かれていった、としても不思議はないのでは、というのが正直な所。


今回沢木さんがこの出版を決意したのは、突然の訃報後、宇多田ヒカルや元夫の宇多田照實氏のコメントで、「謎の死」は、精神を病み、長年奇矯な行動を繰り返したあげくの投身自殺、という説明で落着、

でもこの本のコピーを読み返し、そういう一行の表現で片づけることのできない輝くような精神の持ち主が存在しる、と感じて、新潮社の今の担当者に読んでもらった所、

宇多田ヒカルと同年代の女性から「これを宇多田ヒカルさんに読ませてあげたいと思いました」ときいて、自分も同じことを感じているように思って、強く撃たれた、のが引き金になった、とのこと、

直接の接点はないのかもしれないけれど、沢木さんにとっても、宇多田ヒカルは、初めて歌声を聞いた時から気になってて、母と同じように早い結婚、また離婚、という経緯にも心を痛めてた、そうで、

まあそれは、以前1ファンでロングインタビューして親交もあった演歌スターの娘、としてだけなのか、元恋人の、遺伝子を引き継いでブレイクしたビッグスター、として、なのか?だけれど、とにかくそういう宇多田ヒカルに対しての、という部分、

>ネット上で、藤圭子のかつての美しい容姿や歌声は聴けても、彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、この本にしか残されていないかもしれない、< 

という気持ち、この「流星ひとつ」というタイトルは、今回新たにつけたのでなく、書き終わった時点でつけて、渡米していた藤圭子本人にも送ったらしいけれど、

>いま、自死することで穏当に星が流れるようにこの世を去ってしまったいま、「流星ひとつ」というタイトルは、私が藤圭子の幻の墓に手向けることの出来る、たった一厘の花かもしれないとも思う。<という後記の締めくくり。


私は藤圭子については、近年、外国の空港で大金を没収された、などというスキャンダルの覚え、また、昔沢木さんとの噂があったのだったと知った、ということはあるけれど、

大まかには、幼い頃TVでの、オカッパヘアの渋い声でメランコリックに演歌を歌う姿、引退して渡米、この人とアメリカって、今一結びつかなかったけれど、

噂通り沢木さんとの破局があったとしても、NYで宇多田氏と結婚、娘も生まれ、しかもその娘が後に宇多田ヒカルとして大ブレイク、

辛苦をなめつつもその代償として、公人、私人として幸福も得たかのような、だけれど、結局は、心を病んでいた、という皮肉、悲痛な最期、というインパクトはあっても、

この本を読まなければ、その生身の姿、というのは漠然としたまま忘却の一途、だったのが、正直、恋の噂のあった沢木さんと藤圭子の始まりのやり取り?という下世話な興味を通り越して、

今にして、沢木さんから引き出されていた、その素顔、率直な言葉が全編に散らばり、なかなか異色沢木本、と言ってもいいのか、臨場感的面白さある1冊でした。

関連サイト:Amazon 流星ひとつ/沢木耕太郎
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           <(C)(株)新潮社>

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タイトル : 『流星ひとつ』 沢木耕太郎
「沢木耕太郎」のノンフィクション作品『流星ひとつ』を読みました。 [流星ひとつ] 『凍』に続き、「沢木耕太郎」作品です。 -----story------------- 「藤圭子」と「沢木耕太郎」、二つの若い才能が煌めくように邂逅した奇跡のダイアローグ。 何もなかった、あたしの頂上には何もなかった――。 1979年、28歳で芸能界を去る決意をした歌姫「藤圭子」に、「沢木耕太郎」がインタヴューを試みた。 なぜ歌を捨てるのか。 歌をやめて、どこへ向かおうというのか。 近づいては離れ、離れては近づく...... more
by MIEKOMISSLIM | 2014-12-19 01:43 | 本・音楽 | Trackback(1) | Comments(0)